北九州で国産材を中心に「木の家」造りを実践しています

コラム(不定期更新)

2015.8 頭の片隅で

私たちが木造の新築やリフォームに携わって早十数年の月日が流れました。「木の家」に対して真摯に取り組めば取り組むほど悩ましい問題が出てきます。

今、木造住宅と呼ばれるものはほぼ工業生産品の塊です。骨組みである構造材が、人工乾燥した(KD材)や木の破片を糊ずけした集成材を主流として工場で刻むプレカットが基本になっています。上棟時には、足元から頭のてっぺんまで金物を打ちまくりガチガチに固めます。
内装工事も然り、床材は合板、壁、天井は石膏ボードで覆い尽くします。建具も各メーカーから洒落たデザインの集成フラッシュドア一色です。元が石油出身の化学製品がほとんどで、一部集成の梁が見えたり壁に珪藻土を塗ったからといって自然派住宅と呼べるものではありません。

『丈夫で長持ち、安全で快適な「木の住まい」をお届けします。』をモットーに実践を続けていますがなかなか頂上までの道のりには険しいものがあります。

つい最近まで、刻む工程でプレカットと大工さんの手刻みを併用していましたが、プレカットを避け100パーセン手刻みに変更しました。ここで手間をかければ「木の家」が住み手にとってまた私たちにとっても良い結果になると判断したからです。

コストの面から見れば一番不利ですが、新建材から距離を置き自然素材を多用して木の良さを引き出すには大事な過程です。

ここ三年間「九州大工塾」で「木の家」について様々な事柄を教えていただきました。その先導者である丹呉さんの信念の中に下の一節があります。


ところで、ゴミとは一体何なのでしょう。台所から出るゴミは、ゴミとして処分されているからゴミですが、土に埋めておけば自然に土になってしまうので、実はゴミではありません。いずれ地球に化するものをゴミとは言いません。ゴミとは、地球に同化できずに永久に残る物を言います。私が造りたい住宅は木や土で造るので、処理の仕方によってはゴミになりません。しかし、工業製品で造られた住宅は、同化できない材料でできているのでゴミになってしまいます。住宅は、いずれ(未来に)解体されます。そのときにゴミにしてはいけないのです。何故未来において住宅をゴミにしてはいけないのでしょうか。
『(私たちが)自由であるためには、未来の人間、今ここに存在しない人間を自由たらしめることが同時に要求されるのです。たとえ生きている者の間に公共的な合意が成立したとしても、それが倫理的に正しいとは決まっていないのはなぜか。われわれの「幸福」が、未来の他者をたんに手段として扱い、目的(自由な主体)として扱わないことによって獲得されるものだとしたら、それは倫理的でないからです』今私たちが造る住宅が未来にゴミになるのであれば、未来の人に不自由を押し付けることになり、未来の他者を私たちの生活の手段として扱うことになるというのが、その理由です。住宅を造る現在は、捨てるという未来とともに構成されているのです。私が造りたいと考えている木造住宅の意味は、ここにしか見出せないだろうと強く思います。ゴミを考えてきて、少々コストがかかっても、最初に書いた造り方を続けるべきだと思っています。しかし将来にゴミにならないような可能性が本当にあるのか、と良く問われます。分かるけど、理想論だよねという反論です。しかし造るという行為は、そのようなことだとしか思えないのです。人間はそのようにしか造ってはいけないのだと、私は思っています。


少し哲学的な文章ですが意味していることが純粋です。解体現場に行けば分別するゴミの種類に驚かされます。一方一昔前の住宅は再利用ができ、土と木と紙でできているので何もしなければ土に還ります。当たり前のことが当たり前に出来ない根っこの部分です。

どこまで理想の木の家に近づけるか今の段階で「できる」とは断言出来ません。
ただ亀のようにゆっくりと進む意思を頭の片隅で持ち続けています。